「個」として生きる孤独と喜び
今回、Assisiに行って、本当に良かった、という話を書きました。
(こちら)
道端の聖フランシスコ
行ってみて体感したことが、強くあったから。原体験として、自分の中に積み重なったものが、確かにあった。
なんとなくそうなんだろうな、と思っているのと、実際にやってみて実感するのとは、天と地の差がある。
アフリカに行ってみて、大変なんだろうな、と思うのと、実際に暮らして実感するのは天と地の差がある。
今、戦争が起きている土地にいることを想像するのと、実際に暮らしているのには、天と地の差がある。
やってみなければ、わからない。
経験をしてみないと、わからない。
Mercy me の I can only Imagine.
という歌があって、私はとても好きなんだけど、
いいことも、悪いことも、想像することは、想像でしかない。
これは、事実なのだと思う。
それは、想像することが無駄だ、と言っているわけではない。
でも、あくまで想像は想像でしかないことを、知っておかなければならない。
じゃないと、現実を見ることができないから。
目の前の人の、テレビの向こうの人の、現実は、その人の目の前にあって、
そこに想像を巡らせることはできても、本当の意味で「わかる」ことはできない。
それを知っているからこそ、聞ける。耳を傾けられる。知りたい、と思える。
自分の価値観や想像を押し付けることなしに。
本当の意味での、「わかる」ということは、ないのかもしれない。
それを、孤独、と呼ぶ人もいる。
寂しさを、虚しさを感じる人もいる。
分かり合えない、けどわかり合いたい。分かり合いたい、けど、分かり合えない。
それって、悲しいことだろうか。そうかもしれない。
誰かにわかってもらいたい、と願う。
それって、とても純粋な願いで。
私も長く、そんな願いを持っていた。
(こちら)
それを、「あ、もういいや。わかってもらえなくて。」と吹っ切れたことがあった。
それは、自分自身にとって、分かり合えることが善だ。分かり合えることによって救われる。と思う考えから解き放たれたから。
自分自身が、わかってあげればいい、と思えるようになった。
まずは、自分が、誰よりもわかってあげなければならない。
私の代わりは、誰にもいない。私しかいない。
神様が私という魂をこの肉体に入れ込んだのは、この肉体を通してしか感じられない「個」としての感情があるからなのだと。
だからこそ、私がしなければいけないことは、何よりも、自分自身を知ることなのだと。
それに気づいたから。
この世に対して、「わかって!!こんなに苦しいんだ!!」と叫ばなくていい。
わかってもらわなくていい。
それは、ある意味で、赦し、なのだと思う。
私は、この肉体があるかぎり、どこまでも「一人」なのだ、という感覚。
それは、とても切ないとともに、とても豊かなことだな、とも思うのです。
この肉体で、「個」が与えられたからこそ、世界にはとてつもなく広い世界が広がっている。
「個」の数だけ、世界がある。
私に「個」としての感情があるように、私に「個」としての視点があるように、この世には無数の視点が存在して、そしてそれをあらゆる形で、交わり合わせ、一体となることができる。それは、ものすごく大きな希望のように思える。
分かり合えない、それでもわかり合いたい、と思う、人間の矛盾した思いに、むしろ救われるからだと思う。
それって、きっと、いつかそこに、戻ると知っているから。
いつかは、一体である場に戻る日が来る。この肉体を離れ、「個」を手放す日が来る。
だからこそ、今、この瞬間に全体と一致できないことを悔やむ必要はなくて、今だから感じられるたくさんの「個」としての感情を、大切に感じていきたい、と思うんだろうな。
心配しなくても、その日はきっと来る。
触れ合う肌の暖かさも、「個」があるからこそ。
肉体がある今、「個」がある今、何も異なることがない、ことはできないと思う。でも、全体の一部として一体になって、重なり合うことはできる。
同じ方向を見て、思いを重ね合わせることはできる。相手を想い合うことはできる。新しい気づきを得ることはできる。
嘆きではなくて、喜びに、想いを向けていきたい。