戦わない、とは。社会不適合者で、いいや、と自分を許す

社会に出て働いている中で、それなりに期待や評価をしてもらいつつ生きてきた。

国家公務員として働いたり、外資系戦略コンサルタントとして働いたり、その中でも大切な人に出会えて、育んでもらった。それは、一緒に働いている人たちに、とても恵まれてきたからだろうな、と本当に感謝でいっぱいです。

それでも、夫からは「自己肯定力がものすごく低い」とずっと言われ続けてきた。

私は、自分がなんで評価してもらえるのか、わからない、とずっと思っていたんだよね。

それは、きっと、自分自身に価値がない、とか、そういうことではなくて、「社会の軸で切り取った時に、評価してもらえるような存在ではないのではないか?」という違和感があったからなんだと思う。

わしゃわしゃ。滾れ落ちるお花たち。

自分が社会で求められているような評価軸で、そもそも物事を見ていない。判断していない。

なのに、その軸で評価されるシステム自体にものすごい違和感があったし、「なんだかんだ」パフォームしている自分にも、ものすごく違和感があった。


なんか、違うの。


そういう、違和感があった。


そんななか、ふと、

ああ、自分って、社会不適合者なんだな、と思ったのです。


いいや、社会不適合者で、と思えたら、途端に生きるのが楽になった。

いいや、社内のノーマルやらニューノーマルやらに適合できなくて。


それが、私という人間の価値を1mmも毀損するものではない。と知れたから。


右向け右!で右を見る必要はない。


んじゃ、やーめた。とすれば良い。

もうその瞬間から。やーめた。

いちぬーけた。とすれば良い。

面白くもないゲームをしているなら、やめる、と決めるだけ。


こんなゲーム不毛だ!間違っている!

とわーわーと批判するのではなくて、


やーめた。

いちぬーけた。


ただ、それだけ。


そんなことを、こどもたちを見ていて学んだ。

友達と遊んでいても、嫌なら、さらっと、やめる。その潔さがとても良いな、と。笑


なんで大人になるにつれて、いちいち、相手を説き伏せよう、相手に分からせようとするんだろうね。

そこに、自分の別の不純な動機が隠れていることが、わからないのだろうか。

自分の中のやましさに、気づかないのだろうか。


と、自分の中にうじゃうじゃと湧き上がるやましさを感じながら、気怠く自らを見つめる昼下がりです。


握り締めるのではなく、いかに手を開いておくことができるか。

水戸黄門のごとく、「これを見ろ!!!」と見せつけるために、たくさん傷ついたこと嫌だったことを握りしめているのは自分自身だと気づく。

それは、相手を説き伏せたいから。自分が正しいことを認めさせたいから。相手が間違っていることを認めさせたいから。


そして、自分が傷ついていることを、わかって欲しいから。

わかりあいたいから。


本当は、わかりあいたい。それだけなんだよね。

その、本質の願いに辿り着こう。


相手を説き伏せたい。自分が正しいことを認めさせたい。相手が間違っていることを認めさせたい。

その労力、本当に自分が望んでいる生き方なの?

きっと、違うとおもう。


分かり合いたい、だけど、分かり合えない。

そのことを、つらいと思っているんだな、と、まずは自分が気づいてあげる。

そして、そんな自分を大切にしてあげる。自分が認めて、許してあげる。


分かり合いたい、だけど、分かり合えない。

それでも、一緒に歩いていこう、と、することはできる。


握りしめるのをやめた瞬間、なんでそんなにこだわっていたのだろう、と気づいて、らくになるのです。

からだの力が、ふっと抜けるのがわかる。

あー、こんなに、変な力が入っていたんだ。変にエネルギーを使っていたんだ、と気づく。


本当は、わかり合いたい、し、大切にしたい、し、大切にされたいんだ。


「大切にされていない」と感じるならば、相手に怒りをぶつける前に、自分自身が自分自身の思いを大切にしてあげることから始めよう。

そして、そこに押し潰されるのではなくて、他の自分の願いの、「わかりたい、し、大切にしたい」も、大切にしてあげよう。

ちゃんと見つめて、そこにあることを、認めてあげよう。

自分の願いに、まっすぐに在りたいから。


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