「神様の知恵の探究」という終わりなき旅
私は生きている中で、いつも
「神様のことをもっと知りたい」と思って生きている。
そして、神様は、本当に様々な形で、日常の中でその存在を、そして知恵を見せてくれるので、本当に飽きることがない、というか、いつも感動してしまうんだよね。
でも、そういった気づきって、きちんと自分と向き合っていないと、スルッと日常をすり抜けていってしまう。
毎日、ものすごく変化しているこの日々に気づかないように。
だからこそ、私は自分の感じたこと、思いをノートに書き殴るのがライフワークとなっていて、もはや、ノートを書かないと、呼吸ができないくらいになってきている。
それは、神を、そこに見るからなのです。
私はクリスチャンなわけで、聖書に書かれていることを心から信じているし、聖書から日々たくさんのことを学んでいる中で、
クリスチャン、と言っても、いろんな人がいるんだなぁ、と当たり前のような、でもなんだか衝撃的な事実を最近実感しました。
クリスチャンだから、、みたいなのって、よく分からないのだけど、
私にとってこういう「神様の知恵の探究」って、ものすごくパーソナルな行為なんだよね。
だから、今までも「クリスチャンのつながり」みたいなのが、とても苦手だった。
クリスチャンの子が苦手なのではなくて、そういうグループが苦手だった。
というか、昔からなんでもグループが苦手な人間なので、おそらくこれは自分の問題なのだろう。笑
そんな中でも、自分の中でものすごくずっと違和感があった部分がどこなのか、最近一つ分かったんだよね。
それは、やっぱり私にとって神様との関係は、とっても個人的なものであって、そして、神様から学ぶことには、終わりがない、ということ。「神様の知恵の探究」には、終わりがないのです。
だからこそ、「神様がいるから大丈夫」という態度が、私はずっと好きじゃなかったんだな、と気づいた。
私ももちろん、「神様がいるから大丈夫」だと思っている。
でもそれは、神様がいるから、もうなんでも任せておけば良い結果になるよ!ということでは決してなくて、
どんな状況になっても、神様が導いてくれるから、その状況の中での歩き方を学ぶことができるだろう、私にとって学ぶべきことを学ばせてくれるだろう、という感じなんだよね。
この世に生きていると、もちろんいろんな悩み事や不安、試練のようなものにぶち当たる時がある。どうしていいか、わかんないような時が、そういう時、神様って、もうそこにいてくれるだけでものすごく支えになる存在だし、そして、そこから私たちを導いてくれる存在でもあることが、私は大好きでしょうがないんだよね。
だから、「神様がいるから大丈夫」というのは、決して盲目的になれ、というのとは正反対で、「この状況下での歩き方を神様から学んでいこう」というふうに、私は考えて生きているんだな、と知った。
いろんな人の、いろんな信仰が、考えがある。
今までは、「どれが正しいんだ?私は間違っているかもしれない。。」という不安がいつもあったのだけど、
最近はそういう「外側の正しさ」みたいなのが一切気にならなくなって、私は、私の信仰を、神様との関係を、どんどんと深めていこう、と思えるようになったのです。
だって、絶対、源は繋がっているから。
何も恐れることはないのだな、と。
ずーっと、この道を、歩いてゆこう。
神様、ありがとう、ありがとう、ありがとう。