私は小さい頃から、親の期待に応えたい!と思っていた。
双子の妹を持って、小さい頃に、思う存分かまってもらえなかった、と思っていたのかな。
とにかく、親に関心を持って欲しかった。そのための手段として、親の期待に答える、ということを選んでいたのです。
でも同時に、すごく苦しくなるときがあった。
「私は何のために生きているんだろう。」そう思うことが幾度となくあったし、そうやって精神的にまいる時は、たいてい体調も悪くて、よく保健室で休んでいた。
保健室には、授業をサボっている先輩たちがいて、持て余した空白の時間を、楽しそうに、そして気怠そうに話していた。
みんな、おんなじなんだなぁ、と思った瞬間だった。大人の作った、大人の決めた時間に、決まりに、自分を押し込むことがうまくできない、不器用な人の集まりだった。それは、サボる、という形でも、体調を崩す、という形でも。私たちは、仲間だった。
保健室の先生は、沖ちゃん、といって、すごくサバサバした女性だったのです。
沖ちゃんと話していて、「何してるんだろうなー、とか思う。」とか、ポツポツ話していたとき。
「あんたは、親の人生を生きているわけじゃないんだから、自分の人生を生きなさい。」
そんなことを言われたんだよね。
衝撃だった。「良い子」でいることで、褒められることしかなかったのに。「そんな生き方やめろ。」と言われたのは初めてだった。
しばらくその言葉が頭を離れず、ぐるぐる考えていたのだけれど、当時はその意味をよく理解することができなかったのです。
それからも、高校、大学と進んでいく中で、
「他の人のために生きているわけではない、だから自分の人生を生きなさい」という言葉によく出会った。
「他の人のために生きているわけではない、だから自分の人生を生きなさい」
というとき、私はいつも違和感を感じていた。
それは、
「自分のために生きない」と言っているようなもので、私は、自分自身のために生きることに、何の意味があるんだろう、それこそ、無意味ではないか、虚しいではないか、といつも思っていたからだった。
そんな中で、最近ようやく、気づいたことがある。
自分のために生きなさい、というのと、他の人のために生きなさい、というのは、矛盾しないんだなぁ、ということ。
自分のため、か、他の人のため、か、どちらかだけ、なんてふうに生きる必要はないんだな、ということに、気づいたのです。
自分のため、そして他の人のため、どれも、最終的には繋がっているのだ。
それに気づいたのです。
他の人のためだから良い、とか、自分のためだから悪い、とか、
逆に他の人のためだからダメ、とか、自分のためだから良い、とか、
そんなことに囚われる必要はないんだよね。
ただ、私が辞めるべきだったのは、「この世の目線に自分を合わせていくのを辞めなさい。」ということだった。
どういう自分になっていくのか、それを、自分で選び取っていきなさい、そして、その道をしっかりと歩みなさい、そういうことだった。
他の人の目線を気にして、自分を偽っていくのを、辞めなさい。
自分がどう在りたいか。自分が何を感じているのか。それこそが、「私」として生まれてきた上で、「私」にしか表現できない、生き方になっていくのだもの。
それこそが、神様が私という「個」を用意してくれた理由だもの。
それこそが、自由意志だ、と思う。
イエスの教えの中で、最も有名な言葉の一つは、
『隣人を自分のように愛しなさい。』
だと思うのだけど、私はずっと、この言葉が心に引っかかっていて、しっくりこなかったんだよね。
そもそも、私、自分のこと好きじゃない、愛していない。でも、人の事を、愛しているつもりでいた。
神様の、こそ「自分のように愛しなさい」ということの真意って、どこにあるんだろう、自分のことを好きじゃない私は、人のことをどうやって愛せるのだろう、そんなことを、長らく考えていたのです。
これについては、また書きます。
でも、それがわかったら、ずっと心に引っかかっていた上に書いた聖書の言葉が、しっくりときたのでした。
だから、私は、「人の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きなさい」というときは、
「あなた自身を人の枠組みに押し込むことなく、ただ「あなた」として在りなさい。」
ということになったのでした。
それを、怖がらなくていいのだ、と。
それを許容したら、生きるのがずっと楽になった。
ずっとずっと、苦しかったから。
人と違うこと、それは、人から嫌われることになる、とも思っていた。
人から嫌われたくない、という思いが、強く自分の中にあった。
わかりあいたい、と思えば思うほど、
自分と相手が違うんだ、ということを認めたくなくて、
でも実際は全然違うということを知っていて、
その間で、しばらくもがいていた。
だからこそ、「自分を出せない」とも思っていた。
だって、みんなとは全然違うんだもん。そして、その違いを晒すのは、仲間でいたいならば致命的なものだと思っていたのです。
だけど、みんなと同じようにはできない。だって同じじゃないんだもの。
そうしたら、仲間でいられない。そうしたら、愛を分かち合えない、と思っていた。
でも、それでいいのだ。違っていいのだ。と気付いた。違っていたって、結局は一つになれるのだ。
だから、私は、ただ「私」として、在る。
そしてその上で、その先に、どんな想いを分かち合いたいの?という願いを、見つめているのでした。
その、愛を分かち合いたい、という願いを、大切に持っている。
そしてそれは、
「この世があなたに求めるものを与えていこうとするのではなく、あなたの内に無限に湧き出る愛を、この世に与えていきなさい。」
とも言える。
スタートを自分にすること。
それは、身勝手な自己中心とは違って、本当の意味で自分の中で願っているものに気付いてあげること、なのです。
私にとってそれは、愛を分かち合いたい、ということだったのでした。
うーん、なかなかのぐだぐだ具合だけど、まぁいいや。笑
まだうまく文字にできないけれど、これから生きていく中で、もっと上手に書けるようになるといいな。
表現していけるといいな。
そして、それが誰かの心に、触れるといいな。
そうやって、愛を、伝え合えるといいな。
そんなことを、考えているのでした。