自己犠牲、と聞くと、苦しい、というイメージがあって、ずっと好きではなかったのです。

でも、本当に自己犠牲って、全然苦しいものではないんだな、ということに気づいた。


真の自己犠牲とは、「心の中からあらゆる悪いものを取り払い、そこを良いものだけで満たそうとする作業」という言葉に出会って、

これが今まで私が考えていた「自己犠牲」の考え方と違って、とても素敵だな、と思ったのです。そういう考え方、あまりしてなかったなぁって。


Love means putting others first and being unselfish. To show love we must give sacrificially of our time and money to meet the needs of others.

愛とは、相手を先におもんじて、非利己的であること。愛を示すには、相手のために時間もお金も犠牲的に与えなければならない。 


ということも聞いたのだけど、それじゃあ、外でご飯が食べれずにいる人がいる中で、自分たちだけ夕食を取っているのは罪なのか?

とか、このお金も、自分たちのために使うのは罪なのか?

どの程度なら?とか、そういう話になっていくわけだ。

だけど、そうじゃない。


どうして、お金あげたくないな、と思った?

どうして、夕食に招きたくないな、と思った?

どうして、

そうやって、問うてあげる。

そうすると、自分の中に、「愛」じゃない感情があることに気づいたりする。

自分の中に、苦い感情があることに気づいたりする。そういうのを、ひとつひとつ向き合って、取り除いていくこと。

それこそが、大切なことなのかな。


形だけを見ない。その先を見つめる。

もっと、内側を見つめてみる。そこに何があるだろう。

それを見つめ、悪いものを取り除いていく作業。

これこそが、「真の自己犠牲」なのかな、と、思った。


"Don’t copy the behavior and customs of this world, but let God transform you into new person by changing the way you think. Then you will learn to know God’s will for you, which is good and pleasing and perfect. " Romans 12:2


考え方を変えることによって、神様によって新しい人間へと生まれかわっていく。それによって、神様のあなたへの望みもわかるようになっていく。


やっぱり、考え方が先に来るんだよね。行動ではない。それこそが、イエスがずっと説いていたことだった。

形ではないんだ、心の問題なのだ。


自分自身を、愛で満たしていく行為。それは、自分をとことん愛していく、という意味ではなくて、自分の心に湧き上がる感情を、愛とする、ということ。

そうすることによって、本当の意味で、人を愛することができるな、と思うようになった。


真の自己犠牲とは、「心の中からあらゆる悪いものを取り払い、そこを良いものだけで満たそうとする作業」とすると、終わりがない。

常に、自分が新たにされていく。そして、苦痛の中で犠牲を払えるようになる、のではなくて、人のために喜びの中で自分の時間やお金をわかちあえる自分になる。

そういう自分になるために、弛まなくしていく行為なのかな、と思ったのでした。

「犠牲を払える」というのは結果であって、その行為を目指しているのではない。そうではなく、そう在れる自分を目指している。



自己犠牲って言葉が、好きではなかったのだけど、

ようやくしっくりくる形で、「犠牲的なの愛」を考えていけるようになってきたな。

 

これからも、もっと考えていこう。

そして、日々自分を、新たにしていこう。

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