​子育ての「正しさ」について、前の記事で書いてて思ったのだけど、

「母であるということ」がどういうことなのか、いろいろな先入観から、自分自身を縛り付けがちだなぁ、ということなのでした。

たぶん良き母はこんなことして子供で遊ばない。笑 

たぶん良き母はこんなことして子供で遊ばない。笑 

「良い母」であるために、どうしなきゃいけない、あれしなきゃいけない。

子育ても家事も両立しなきゃいけない。あんまり泣かせちゃいけない。

こうやって自分をどんどん苦しめていくのが、どんなに簡単か、というのを子供を持って感じている。


でもね、それによって気付かされたのは、そうやって他の人の目線を気にして、他の人から見た「良き母」像(幻)に自分を押し込もうとしていると、すんごくすんごく苦しい、ということ。特に、女性って自分を責めがちな人が多いから、どんな些細なことだって、自分のせいじゃないか、、!と思っちゃいがちなんだよね。


人といるときに、理央が泣いたりすると、「I’m sorry…」って言っている自分がいることに気づいて。泣くことは、悪いことなんかじゃないのに、なんで私は謝っているんだろう?と思ったのです。無意識のうちに、人前で泣くことはよくないこと、と思っている自分がいたんだろうね。


そして、理央を二人きりでいるのが苦手だった。泣いたら、それは自分のせいのように感じるし、退屈していないかな?とか、十分刺激があるかな?とか、何か不満はないかな?とか、これでいいのかな?って思うことが無数に出てきて、すごくドキドキしていた。そして、寝ていてくれる時が、一番リラックスできた。本当は、一緒にいる時間を、心から楽しみたいのに、すんごい緊張して、神経張り詰めていたのです。


子供が泣いてばかりいるの、とか、体重があまり増えない、とか、あまり笑わない、とか、夜寝ない、とか、

「私の育て方が悪いのかな?」とか、「私のことあまり好きじゃないのかな?」とか、自分に責任がある方向にすぐ考えがちなのです。

全ては自分に責任があるって、すごく悲しい考え方だし、同時に傲慢な考え方でもある、と思う。

全責任が自分にあるだなんて、全コントロールは自分に与えられている、と言っているようなものじゃないか。相手の意思ですらも。

そして、とても悲しい。子供の一つ一つの行動にそわそわして、嫌われてないかな?ってドキドキして、子供に人生や自分の価値を捧げているようなものだもの。そうやって、生きたいわけじゃないと思うんだよね。そして子供にとっても、泣いたり怒ったり、そういう人間として当然に持つ感情の表現を自由にしている中で、毎回母親に顔色チェックされえて、泣いたりすると、すごくショック受けているように見えて、って、鬱陶しいことこの上ないじゃないですか。子供は、さらに悲しくなると思う。そして、そういう泣いたり怒ったりする自由が制限されていってしまう。


泣くのも笑うのも、喜ぶのも怒るのも、すべて、大切な感情なんだよね。人間として欠かせない感情で、人生を豊かにするものなのだ。

ギャン泣きの理央。笑 

ギャン泣きの理央。笑 

 

笑うこと喜ぶことはいいこと、泣くこと怒ることは悪いこと、と決めつけたりしないで、全てをまるっと受け止めてあげればいい。

全部、人生を豊かにする喜びになるから。全部、私たちに与えられた必要なことだから。

 

だから、相手の挙動で自分を責めるのをやめよう。

相手に、自由に感じて、自由に表現する権利を尊重しよう。

そして、自分自身にも、自由に感じて、自由に表現する権利を大切にしてあげよう。

その中で、コミュニケーションを取っていけばいいのだもの。


そうやって、自分にも相手にも、感情を自由に表現することを許したら、途端に一緒にいる時間が楽しくなったのでした。

泣いてたって、怒ってたって、かわいい。どんな理央も、かわいいな、愛おしいな、と思えるようになりました。


神様もそうなのかな。私たちに自由を与えてくれた。

そうやって、自由の中で精一杯生きる私たちを、優しいまなざしで見守ってくれているんだな、と感じたのでした。

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