私はイエスにつかまったのです

遠藤周作の「深い河」の中で、

「私はイエスにつかまったのです。」

という文章があって、


その気持ち、私にもとてもよくわかるな、と思った。


私も、イエスにつかまった一人だ。



私は、クリスチャン、といいつつも、

キリスト教の教義とかそんなのはちっとも分かっていないし、あまり分かろうとも思っていないんだよね。


それは、私にとっては、いつもイエスが全てだから。

他の人がどう考えるのか、というのはもちろんとても参考になる。けれど、それは、聖書を読んで神と向き合う中で学ぶことの代わりには絶対にならないから。


私にとっては、聖書に書かれているイエスが最も尊敬する相手であるのだ。

それは、尊敬せずにはいられない、に近い。

その生き方に、その姿勢に、その考えに、その知恵に。



なんで私がこんなにイエスを好きかというと、

それをまさに言い表す記述を岩田靖夫さんの「人生と信仰についての覚え書き」に見つけたのです。


「イエスは驚異的に自由でした。

習慣や文化や宗教に縛られません。

立法に縛られません。人々がなんと言うかなどということには、全く無関心です。ただ神の意思を行う自由を持っていただけです。… イエスは誰をも恐れません。なにものにも執着しません。彼自身の説教の成功にも執着しません。」


「イエス自身の生き方は、信仰の押し付けでは全然なかったと思います。イエス自身は、弱者とか、阻害された人とか、社会の下層にいる人を、大切にしました。…. それで、新約聖書を見ると、イエスはユダヤ人とだけ付き合っていたわけではないですね。ローマの百人隊長だとか、カナン(パレスティナ人)の女とか、サマリア(ユダヤ教から離れたユダヤ人)の女とか、そういう人たちと付き合っている。彼らに好意を送っている。彼らの仲間になっている。その時に、カナンの女とかローマの百人隊長に、「君たち、ユダヤ教に改宗しろ」なんて、イエスは絶対言っていません。ただ人間として、底知れぬ同情と好意を示しただけです。」



私は、イエスのこういうところに、惚れてしまったんだよね。

絶対的に、自由である人。

それは、「自分の在り方を自分で決定する存在者である」ということ。


自分の在り方を、誰にも左右されることなく、損得に振り回されることなく、淡々と「こう在りたい」と思う通りに生きるその姿が、私にはものすごく格好良い。

そういう、本当に純粋な存在であるイエスに、私は惚れてしまったんだ。



パウロに天国への鍵を渡すイエス

パウロに天国への鍵を渡すイエス

力も権力もかざすことがない。偏見も執着もない。

なのに、こんなにもパワフルな人。


満たされていて、満たすことができる人。


いつもまでも、私の生き方の指針です。


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