「好き」と「愛してる」って、全く別物でした
この前、謙ちゃんと話していたとき、理央を見ながら、
“I love him. Even though sometimes I don’t like him, I love him.”
と言っていた。
この発言で、もうとてつもなく衝撃的な事実に気づかされたのです。
みんなの中で、愛している、と好き、の違いって、なんだろう?
私は、愛している、は、好きの延長線上にあるものだと思っていたんだよね。
でも、そうじゃなかった。
愛している、と、好きって、全くもって、別物だったんだな、と知ったのです。
「愛している」ということが、「好き」の延長線上にくるとしたら、
愛している≒大好き ってことになる。
でもね、愛ってさ、別の大好き、という感情として現われるとも限らないんだよね。
愛は憎しみにもなりうる、というように。
んじゃ、愛ってなんだろう?
それをずっと考えていたのだけど、昨日の夜、ベットで横になりながら、とても不思議な感覚になった。
愛って、ずっと、根底に流れているものなんだな。
そう、感じたのです。
家族となる、と誓って、こうして人生を共に歩んでいく中で、
毎日一緒にいると、いろんなことがある。
その全てが、好きなわけじゃない。
その全てが、愛しいわけじゃない。
子育てって、痛いこといっぱいあるよね。笑
でも、愛しているんだな。
愛したいんだな。
そして、愛されているんだな。
そんなことを、体の奥底から感じていた。
相手の行動に対して、嫌な思いになることもある。
でも、それは、好みの問題であって、「愛している」というところとは全く違う、
もっと表面的なものであった。
愛って、もっと、私たちの根底を静かに流れている、小川のようなものなのだと思う。
ずっと、ずっと、変わらずに、そこにある。
くっつけない。
愛する、と、好き、を。
それをくっつけちゃうと、好き・嫌い、といったことが起きた時に、
愛している・愛していない、ということを同時に考えてしまう。
そのどちらかの世界しか、ないように思えてしまう。
相手が「嫌い」といった時にも、自分自身を全否定してしまう。
相手の「嫌い」が見えた時にも、「愛していないんじゃないか」と考えるようになる。
でも、そうじゃないんだ。
ずっと、愛し合っている。
私たちは、それぞれの人生を、こうして出会いの中で、重ねあって生きている。
それを、選択して、生きている。
そこに、愛がないわけ、ないじゃない。
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