今雇っているお手伝いさんは、野菜売りをしていた女性の人柄が個人的にとても気に入ったことから、彼女に家事と育児の手伝いをしてもらうようになった。
だから、私たちがリベリアを去ると、また仕事がなくなっちゃうんだよね。
2児を持つシングルマザーとして生活しているからこそ、私たちが去った後の収入はどうなるのか、子供たちと暮らしていけるのか、とか、いろんなことを考える。
「私が去ってからも、幸せに暮らして欲しい」そんな思いが、すごく強く湧いてきてて、
どんなビジネスができるだろう、とか、次の働き手、誰かいないかな、とか、いろいろ一緒に考えていた。
そんな時、ふと、あれ、これって、すごく傲慢だ、と思って。
私は、「幸せになって欲しい」と願っているけれど、それって、とても傲慢な願いでもあるな、って。
あたかも、彼女は幸せではない、という烙印を押しているかのよう。
ここで暮らしている人たちって、私よりもよっぽど幸せに暮らしていたりするのだ。
というか、リベリア人って、幸せであるのが、とてつもなく上手。
子供たちを学校に通わせれなくても、月末にお金がなくて、食べ物がなくても、
ずっとずっと、幸せそうにしている人が、たくさんいる。
なんでなんだろうね?
私が、物質的なものに恵まれていなくてかわいそう、だなんて、上から目線で押しつけていただけで、
彼女はずっと昔から、幸せそうだったじゃないか。
そんなことから、んじゃ、私にとって幸せって、なんなんだろう、と考えさせられたのです。
幸せになって欲しい、って、どういう状態でいて欲しいの?何を願っているの?何が足りないと思っているの?
そういうことを通してみえてくる、私にとっての、幸せの基準って、何なんだろう??
そんな中で、「Benethaの夢は何?」と聞いた。Benethaは、どんな願いを持っているの?って。
最初に聞いた時は、「看護学校に行って、ナースになること」
次に聞いた時は、「料理学校に行って、お菓子の焼き方を学ぶこと」
そして最後は、「リベリア以外の国を、見てみたいな」
いろんな答えが返ってきた。
夢を語るときの、内から輝くキラキラした笑顔って、忘れがたい。
ちょっと照れくさそうに、はにかむ姿とか。
私はその時、
そっか、私は、Benethaに希望を持って生きてほしいんだな。
と気付いたのです。
そして、同時に、私にとっての幸せが、何なのかも。
どんなに環境が苦しくても、どんなに不可能に思えても、
そうやって、希望に向かって、生きていける。
希望に胸を膨らますことができる。
その瞳の輝きを、失うことなく、生きていくことができる。
そんな中で、たくさんの人の愛に触れて、たくさんの人に愛を渡して、
必要なものは、与えられていくんだ、ということを、
実感してもらいたかったんだな。
物質的なもの以上に、内面的な豊かさとして。
そうやって、希望に向かって、歩んでいっていいんだよ、って。
自分にも同時に、言い聞かせる。
希望を持って、生きているかい??
“I pray that God, the source of hope, will fill you completely with joy and peace because you trust in him. Then you will overflow with confident hope through the power of the Holy Spirit.”
Romans 15:13
”どうか、希望を与えてくださる神があなたがたを幸せにし、平安で満たしてくださいますように。どうかあなたがたを、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。”
ローマ人への手紙 15:13