裁くな、自分が裁かれないためである。
私は前回の記事で、マタイ書とルカ書を引用したのだけど、
その中で、
“人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。”
マタイによる福音書 7:1-2 JA1955
という箇所があるのね。
私は、それが最近になって、よ~く分かるようになった。
で、これって、”罪悪感”の形でよ~くわかるのです。
例えば、
そんな小さい時から保育園に預けるなんて、かわいそう。
両親共働きなんて、かわいそう。
夫が専業主夫なんて、かわいそう。
そういうのと、私はすごく葛藤した。
これって結局、私が他の人を見るときに、
あ、あの子は、両親共働きしてて、相手にしてもらえなくて可哀想だな。(なんて親だろう。)
とか、
あ、あの人は、妻のために専業主夫しなきゃいけないなんて、可哀想だな。きっと我が強い嫁なんだろうな。(なんて嫁だろう。)
とか、
あ、あの人は、大企業に入らなかったからあんな仕事してるんだな。(落ちこぼれか。)
とか、散々思ってきたからなんです。
ようは、勝手に他の人のこと、裁いてた。
んで、今になって、自分がその立場になり、苦しむことになっている。
そういう”罪悪感”と、戦わなくちゃいけなくなっている。
そういう、”なんてやつなんだ”に自分がなれなくなる。
別に、それ自体が悪いことではないのに、”悪いことだ”と、自分が決めつけているから。
これが、
自分が裁くように、人からも裁かれるであろう。
ということなのです。
もっというならば、自分が裁くように、自分のことも裁いているんだよね。
わかるかな??
自分がこれが正しい、これは間違いだ、という判断軸を持って、
相手をジャッジしている限り、
それは、自分に跳ね返ってくるよ、ということなのです。
そして、そうやって、みんなが自分たちを苦しめあっているんだ、ということなのです。
これって、本当に本当に、苦しい。私自身が、本当に、そう感じて、絶望した。
自分だけじゃない、周りも苦しい。
大手企業に入るのが勝ち組だ。(正しいことだ、善だ)と思っている限り、周りの人をそういう目で見てジャッジするとともに、自分がどちらかにいるかで、苦しめられることになる。
結婚するのが勝ち組だ。と思っている限り、周りの人をそういう目で見てジャッジするとともに、自分がどちらかにいるかで、苦しめられることになる。
カッコイイ彼氏がいるのが勝ち組だ。
子供を産むのが勝ち組だ。
出世するのが勝ち組だ。
痩せているのが勝ち組だ。
おしゃれしているのが勝ち組だ。
高級レストランに行けるのが勝ち組だ。
賢い子を持つのが勝ち組だ。
愛されるのが勝ち組だ。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
そうやって、周りの首を絞めているのと同時に、自分の首を絞めているの。
だから、
フザケンナ、
と思った。
なんでそんなことするの。
なんで、自分を苦しめるようなことするの、なんで、自分を傷つけるようなことするの、と思った。
だって、苦しいじゃん。自分も、周りも、すごく、苦しいじゃん。
だから、イエスは言ったのです。
裁くな。さもなければ、裁かれるであろう。
許せ、そうすれば、許されるであろう。
こうでなければならない、という自分が、そうでないことを、許す。
そういう、既存の価値観を、超えていく。
それがなくなった、真っさらの状態で、自分を、周りを見たとき、
今までは見えなかったものが、見えてくるから。
許していこう。
自分も、周りも。
それができたとき、
私たちは、もっと、純粋な愛に触れることができるから。
“Do not judge others, and you will not be judged. Do not condemn others, or it will all come back against you. Forgive others, and you will be forgiven.”
Luke 6:37 NLT
“人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。”
ルカによる福音書 6:37 JA1955
““Do not judge others, and you will not be judged. For you will be treated as you treat others. The standard you use in judging is the standard by which you will be judged.”
Matthew 7:1-2 NLT
“人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。”
マタイによる福音書 7:1-2 JA1955
祈り方が知りたい、と思うあなたへ
キリスト教徒なのだけど、、、
私はキリスト教徒なのだけど、それを言うと、「祈り方を教えて!」といわれることがある。
実際に、私も海外のクリスチャンコミュニティーに属するまでは、そういうことをすごく気にしていた。
リベリアの大好きな仲間たち
結構、みんなでお祈りする機会とかがあるのだけど、人の前でお祈りする、ということができなかったんだよね。
それは、祈りを他の人とする、という感覚があまりなかったというのと、それ以上に、
「私、正しい祈り方しているだろうか、、??汗」という不安があったから。
どうやって十字架切るの!?とか、どうやって祈りを始めてどうやって祈りを終えるの!?とか、
(実際プロテスタントは十字架はきらないし、宗派によって祈りの始め方も締め方もそれぞれなんだよね)
ペテロに神の王国への鍵を授けるイエス
お酒飲んじゃダメなの!?結婚しちゃダメなの!?とか、、そういう”HOW”がすご〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜くきになるんだよね。
これって、日本人独特のものなのかな、とよく思う。「形」を知りたい。「ルール」を知りたい。そうすると、枠にハマれて、安心するのだ。
それは、日本人にとっての宗教が、”形式的なもの”で”儀式的”なものだからなのかな。いつも、形ありき、なんだよね、不思議と。一方で、ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。みたいに、変化を世の常とする無常観もあるのだけど。だからこそ、自分たちがすることくらいは、「形」が欲しいのかな、わかんないけど。
リベリアで、Bevと話していた時、
「キリスト教って、チェックリストがあって、この要件をこなせば、あなたは立派なクリスチャンです!みたいなものではないんだよね。そうだったら、もっとずっとわかりやすいのかもしれないのだけど、そうじゃない。」
といっていた。
「だからこそ、勘違いもされやすいけれど、その人それぞれの内側で起きていることなんて、外側からは見えないわけで、外側を見てみんながお互いをジャッジするよりも、ずっとずっと深く内側に光を照らしているんだよね。」
聖書を読んでも、聖書は「○○○をしなさい。そうすればあなたは救われます。」なんて始まり方はしない。
「こうしなさい。」と外から縛り付けなかった。イエスがいうことはいつも、「自分の心の動機を見つめなさい。」ということだった。
そして、当時そうした形式に捕らわれていたユダヤ人たちに警告を与えて、本人は、形式を全部取っ払っちゃいました。
Once Jesus was in a certain place praying. As he finished, one of his disciples came to him and said, “Lord, teach us to pray, just as John taught his disciples.”
Jesus said, “This is how you should pray:
“Father, may your name be kept holy.
May your Kingdom come soon.
Give us each day the food we need,
and forgive us our sins,
as we forgive those who sin against us.
And don’t let us yield to temptation.”
Luke 11:1-4 (NLT)
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、洗礼のヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」
イエスがこういった時、当時の人々は衝撃を受けたんだよね。
それは、神様に対して、こんなに親しく子どものように話しかける、ということが、考えられなかったから。
でも、それこそが、イエスが伝えたかったことなのだ。
純粋な心で、子どものように祈りなさい。
それは、「形」ではなく、「心」なのです。
愛ってなんだろう?
子育てをしていると、「こういう時はこうするのが正解。」「これが正しい子育ての仕方」みたいなのが無数にあって、混乱することがある。
子育て本、みたいなものには、正反対のことを言っていることが、珍しくないもの。
だからこそ、「愛さえあれば、大丈夫。」と言っている人がいて、私も心からそう思う。
ただ、「愛ってなんだろう?」。
愛の形って、いろいろあるよね。転んだ時に手を差し出したい、と思うのも愛だし、自分で立ち上がる強さを身につけてほしい、と思いあえて手を差し出さないのも、愛なのだ。
一升餅担いでガン泣き。これは親のエゴ?笑
どういう形で愛を表現するのかって、本当に無限に形がある。
行動としては、真反対のことをしていても、根っこの思いとしてあるのは、同じ愛だったり、するんだもの。
んじゃ、何が正しいんだろう?
それを行動の次元で良い・悪い、正しい・間違い、と判断しようとしている限り、永遠に迷うことになる。
こういうときこそ、聖書に立ち戻るのです。
“Love is patient and kind. Love is not jealous or boastful or proud or rude. It does not demand its own way. It is not irritable, and it keeps no record of being wronged. It does not rejoice about injustice but rejoices whenever the truth wins out. Love never gives up, never loses faith, is always hopeful, and endures through every circumstance.”
1 Corinthians 13:4-7 NLT
“愛は寛容であり、親切です。愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。 決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いら立たず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても気にとめません。 決して不正を喜ばず、いつも真理を喜びます。 愛は、どんな犠牲をはらっても誠実を尽くし、すべてを信じ、最善を期待し、すべてを耐え忍びます。”
コリント人への手紙Ⅰ 13:4-7 JCB
今、私は、どの愛でこの子に接しているだろう?
どの愛でこの子に接したいだろう?
この子への「愛」は、本当に純粋な愛かな?
我が子にとって、”一番”良いことはなんだろう?とよく考えていた。でも、”一番”なんて、この子にはないんだよなぁ。
この子には、明日もない。昨日もない。ただただ、今がある。
他のどんな世界もない。今、目の前がある。
それは、どんな世界に見えるだろう。
どうか、愛で溢れる世界でありますように。
子宮内膜症について
お腹の中に、赤ちゃんがいる、ということが、すごく不思議な感覚。
うにょうにょ動いて、胎動として、赤ちゃんの動きが、力強く感じられる。
こうして、赤ちゃんと一つの体を共にして9か月間過ごすということが、とても神秘的で、とても幸せな時間なんだろうね。
謙ちゃんは、30歳までに赤ちゃんが欲しい、とずっと思っていたようで、私たちは結婚してから、子供を授かるのを待ってました。
「タイミングは神様が決めるもの」という信頼があったら、神様が与えてくれる時が、一番ベストなタイミングだと思い、全てを任せることに。
その決断に至ったのは、私自身が子宮内膜症を抱えていて、妊娠ができるかどうかという不安もあったからだった。お医者様からは、早めの妊娠を薦められていた。
子宮内膜症を抱える方の、30〜50%は不妊症を抱えている。また、不妊症の25〜50%の方が、子宮内膜症を抱えている。
そして、ピルを摂取したりと、治療をしていないと、症状は時間が経つほど悪化する一方。一番有効な治療法は、「妊娠すること」だと伝えられたのです。
子宮内膜症の治療のために、ピルを摂取していた時は、ピルがなかなか体に合わず、だるさや気持ち悪さがあった。軽くなるはずの生理も、いつものようにすごい出血と腹痛で、貧血になりフラフラしていた。
女として産まれて、大好きな人の子供を産む、というのは、一つの与えられた素敵な特権だと思っていた。自分と彼との半分半分の子供が、この世に誕生するって、なんて素敵なんだろう、って。
私たちの両親や、もっと先の祖先まで、命がこうして繋がれていくことの奇跡を、経験していける、その大きな繋がりの一部となれることの感動を、大好きな人と共にしたかった。
だから、「妊娠できない体かもしれない」という事実は、私の中でとてつもなく大きな不安でした。
結婚してから、全てを神様に委ねよう、と決め、命を私の体に宿すタイミングも、すべてを委ねたわけだけど、
結果として丸1年、待つことになりました。
私たちにとって、これがベストだったな、というのは、時が経てば経つほど感じるのだけど、
実際この1年間は、とても怖い1年間だった。
毎月、生理が来るたびに、痛みに苦しみ、ベッドから出ることもできず、指一本動かすのですら辛く、痛み止めをいくつも飲み、意識を失うように、眠りについて、そしてまた痛みで起こされ、ひたすら耐えながら時が経つの待っていた。同時に、「今月も妊娠できなかった」という事実が、重く重くのしかかってきた。どんどん悪くなっていくように感じる症状。
少し生理が遅れると、妊娠したかも、、!!?という期待に包まれて、1日1日をドキドキしながら過ごして、そして、そろそろ検査してみようか、という頃に、生理がくる。
あのアップダウンは、中々キツい。
謙ちゃんが生理が来るたびに、がっかりしたように見えたのも、「女として失格」というように感じられて、精神的にすごく辛かった。(実際そういうわけじゃなくても、追い詰められて、そう見えてしまっていたんだろうな)
もう嫌だ、辛い。と思って、泣いたことも何度もあった。
そんな日々を過ごす中、6月のある夜、いろんなことと共に、二人の赤ちゃんについて、お祈りしていたら、
「半年以内に、子を宿すから、安心しなさい。」
って心に強く、強く、語りかけられたのです。
すごくびっくりした。
そして同時に、とても癒され、励まされた。
それまでは、謙ちゃんに「今月こそ、妊娠したかもね」って言われると、
「そんなこと言わないで、また悲しむだけだから」と思って辛くなっていたのだけど、
この時初めて、「あ、自分、赤ちゃんを宿せるんだ。子供を産むんだ。」という感覚を、心にずっしりと感じられたのです。そしてそれは、とても大きな安心感に包まれていた。
そのあとも、生理が来て辛かったのだけど、絶望の中で苦しむのではなく、痛みの中にも、希望があった。
自分が女として産まれたこと、そして、子供を宿すために、こうして毎月準備していることを、しっかりと、受け止めていた。
8月に、Samaritan's Purseのメンバーで集まる機会があって、それぞれの家族のためにお祈りをする機会があったのです。そこで、私は、「二人の子供のために、祈ってほしい。子宮内膜症を抱えているから、どうなるかわからないけれど、家族を作っていきたいのです。」とお願いして、みんなが祈ってくれました。
その1週間後が、生理予定日だったのだけど、生理がこなくて。
まぁ、生理が遅れることは多々あったし、もうそれで「妊娠かな!?」ってソワソワするのには疲れていて、「あ、また遅れてるなぁ。。」くらいに考えていたんだけど。
さらに1週間経っても、生理がこない。
そして、病院へ行って、ドクターに検査してもらったら、お腹に命が宿っていることが、わかったのでした。
びっくりしすぎて、しばらく信じられなかった。
妊娠するときって、もっと女の勘みたいなもので、わかるかと思ってたの。
だけど、全然そんなことなかった。笑
え??????ほんと??????????????
って感じ。笑
でも、すごいね。体の中では、すくすくと、毎秒毎秒、大きくなっていっている。
この世に生まれてくるための準備を、一生懸命しているんだもんな。
そんなこんなで、結婚してからちょうど1年。命を宿しました。
祈りによって、与えられた子。
神様の、優しさを、ひしひしと感じている。
5月に会えるお腹の子と、これから時間を共に過ごしていけるのが、すごく楽しみです。