光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
謙ちゃんとは、3月9日に出会いました。
3月9日といえば、中学生の時にレミオロメンの「3月9日」という曲が大好きだったなぁ、なんて思い出した。
学年合唱でも歌った曲だったのです。
「流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じます
忙しくすぎる日々の中で、私とあなたで夢を描く
…..
気づいたことは1人じゃないってこと」
この歌詞をふと口ずさんでいて、
まさに、そんな感じだなぁ、なんて思っていた。
1人でいた時は、どれだけ忙しくしていても、
どれだけ楽しくしていても、どれだけリラックスしていても、
どうしようもない虚無感に襲われることが、たまにあった。
どこにも逃げられない。
どこにいっても、どこまでも追い詰めてくるような、
いいようのない虚しさに、寂しさに、よく襲われた。
何をしようが、何をしまいが、
生きようが、死のうが、
結局は、無に帰するんでしょ。
なんなんだ。
なんの意味があるのだ。
私の生に。
一人一人の生に。
なんで私はここにいなきゃいけないのだ。
人を傷つけ、人に傷つけられ、
地球を、この世を破壊し、
そうやってしか生きていけないというのに。
勝手に産み落とされ、
その理由も、目的も、意味もわからず、
日々を過ごしていかなきゃいけない。
なんなんだ。
なんだっていうんだ。
そんなふうに、よく感じていたのだ。
「無」の深さに、囚われていた。
そして、そういうものだと思っていたのだ。
もう、これからは逃げられない。
そんなふうに思っていた。
今は、そんなふうに考えることが、ほぼなくなった。
それは、子どもができてから、さらに減った。
どうしてなんだろうね。
わからない。
まだ答えを得たわけでもないし、
ましてや言語化できるわけでもないのだけれど、
もっともっと、
光の中を、生きられるようになったんだな、と
ただただ、そんなふうに感じる。
あの「虚しさ」の底のない ぬかるみから、
私を引き上げてくれた神様に、謙ちゃんに、理央に、次の子に、
今まで出会った全ての人に、心から感謝だな、と思う。
人生、本当にわからないものだよね。
光を求めていこう。
光の中を生きていこう。
そこは暖かくて、闇が入ってくる隙間もない。
そんな光を、私はこの子たちにも感じてもらいたいな、と思った夜でした。
“The Word gave life to everything that was created,
and his life brought light to everyone.
The light shines in the darkness,
and the darkness can never extinguish it.”
John 1:4-5
”この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。”
ヨハネの福音書1:4-5