石を積み重ねる先に、何を見る

今週は謙ちゃんのお誕生日だったので、

家族で旅行に行ってきました。


日光へ初めて行って、日光東照宮(の入り口)まで歩いていった。

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とても立派な石畳の上を歩く中で、

夏に訪れた五島列島の頭ヶ島教会のことを思い出していた。

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地元の石を削り出して、信徒たちが10年かけて完成させた教会。



ヨーロッパに住んでいたときに、

たくさんの教会を訪ねて歩いた。


とても質素なものから、大聖堂のように豪華絢爛なものまで、

いろんな教会がある中で、

もちろん、大聖堂のような場所を訪れると、ものすごく圧倒されるし、その美しさはとても魅力的なのだけど、

同時に、そこにある歴史を考えて、心が沈むことが多かった。


どれだけの人が、この教会を造るのに携わったのだろう?

どれだけの人が、ここに費やされる税に苦しんでいただろう?

どれだけの人が、この教会を心から喜んでいただろう?


と考えてしまう。


キリスト教が圧政していた歴史、というのは、やっぱり存在すると思っていて、だからこそ、

あまりに豪華なものを見ると、その裏で流されていた血や涙、苦しみのことを考えずにはいられなかったのです。



でも、夏に頭ヶ島教会を訪れたとき、

「信徒か地元の石を切り出し、10年かけて造り上げた」という話に、

ものすごく衝撃を受けた。


この石一つ一つが、本当に、彼らの喜びと、信仰の証なのだ、と、ものすごく真っ直ぐ伝わってきたのです。


その純粋さに、心から感動した。




そして、今回、こうしてまた違う場所で石畳を見つめて、考えていた。


この石を削り取り、この場所に置いた人は、どんな気持ちでそれをしたのだろう?



それは、私にはわからない。

その人にしか、わからない。


何千年も語り継がれる、人の道を作り上げているんだ、と思っていた?

どうしてこんな忌々しい作業を、自分がしないといけないんだ、と思っていた?

私はどうだろう。

今、やっていることに、どんな気持ちをのせているだろう。

凄いことだから、褒められることだから、歴史に記憶に残るからやる、のではない。

そんながめつさは、いらない。

もっと淡々と、もっとしみじみと、

自分のやるべきことを、

喜びの中で、心を込めて、今を過ごしていきたいです。


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