「嫌な気持ち」になるのは「悪い」こと?
この記事を書いたときに、
自宅出産に対しての自分たちの決断が、「人と違うから」した決断だと決めつけられて、悲しかったということを書いた。
すごく、嫌な気持ちになった、って。
で、この「嫌な気持ち」になったことって、今まであまりブログとかに書こうと思わなかったんだよね。
「嫌な気持ち」をわざわざ書きたくなるのはなんで?って考えたときに、「相手を批判したい」という気持ちが潜んでいるように思えたから。「嫌な気持ち」について聞いても、あんまり良い気分にならないしね。
でも最近、こういう「良いこと」「悪いこと」みたいな物事への考え方が大きく変わったのです。
「嫌な気持ち」になることは、「悪い」ことであり、「汚い」ことであり、「負・マイナス」であると思っていた。
でも、最近、私は、この肉体を持ってして感じられる感情全てが、「幸せ」であり、「喜び」であり、「愛」なのだ、を気づいたのです。
例えそれが、「嫌な気持ち」であったとしても。
その上で、こうした「嫌な気持ち」を見たときに、今までと全く違った視点から眺められるようになった。
「嫌なことを言われた」というのと、「言われて嫌な思いがした」というのでは、全然意味合いが違うよね。
言われたことを「嫌なこと」と一般化して、その言葉を投げつけられたことに対して憤慨しているのか、それとも、何か言われた言葉があって、それに対して自分がどう感じたのか。
私は、決して、「嫌だな」と思ったときに、前者にならないように気をつけている。だって、「嫌なこと」を言ってくる「嫌なやつ」だと、相手を批判したくなるから。
でもそうじゃない。私たちの感情というのは、あくまで何かに対しての反応であって、その言葉自体に善悪が存在しているわけではないのです。(もちろん、善意・悪意というものはあるのだけれど)
私は「感じられる」ということに喜びを感じているので、「嫌な気持ちになった」ということも、とても主観的なものだと理解した上で言っているのです。
それは、決して「こういうことを言う人は嫌なやつだ」と批判したい、と言うわけではない。「私は、そう言われて嫌だった。」以上。
その人が嫌なやつなわけでも、その言葉自体が「嫌なこと」=「悪いこと」なわけでもない。
「私が」それを聞いてどう感じたのか、ということなのです。そして、私の在り方・価値観は、それとどう違ったから、そう感じたのだろう?と自分自身に問う機会になった、という、それだけのこと。
私は、人と違う、と言うことに価値判断を置いている、と思われたことが、とても悲しかったんだな、とか、そういう表面的な部分だけしか分かり合っていなかったことが悲しかったんだな、とか、自分がどうしてそう感じたのかが、ものすごく良く見えてくる。
自分に問うた上で、それじゃ、これからどう在りたいの?どういう関係を築いていきたいの?と自分に問うて、決めていくことができるのです。
こうして、自分自身に問えるからこそ、本当の意味でのコミュニケーションが取れるようになっていくんだと思う。
私は、相手とどんな関係を持ちたかったのか、相手とどんなことを分かり合っていきたかったのか、そういう願いが、わかった上で、相手に伝えることができるんだもの。
私の場合は、もっともっと、本質を伝える、という努力をしていこう、と思った。表面的なことだけを話すのではなくて、そのうちにある自分たちの願いを素直に伝えていく努力をしていこう、と決めたのです。それは、もっともっと、関係を育んでいきたいな、と思ったから。
こうやって、「言われて嫌なことがあった」という出来事が、私の中でまた大切な経験として、積み重ねられた、という、ただそれだけのこと。
私は、それをより良い人生を歩むための糧にしたい、と願っているし、もっともっと多くの人と、本当の意味で分かり合えていくためのきっかけとなれば、と願っている。
そして、やっぱりいろんな人が、いろんな出来事に対していろんな反応をする、ということを知ることは、それだけでものすごく勉強になることなんだよね。
自分を見つめるきっかけになるんだもの。
自分はどう思うだろう?自分は、何を大切にしたいんだろう?そう問えるきっかけがあるって、本当に宝です。
だから、私は「嫌なこと」でも「嬉しいこと」でも、それを良いこと、悪いこと、とせずに、淡々と書いて伝えていけたらな、と思うようになった。
私という人生を通して見える世界が、他の人の人生を通して見える世界とどう違っているのか。
私自身、日々勉強しています。